◎教祖は一貫して真を教えられた。真とは、本当のことを本当のことと分かること。真とは(二つの真)
%1弘子先生の布教に対し%2上野愛子先生の父が亡くなられる%3久保山先生が亡くなられたことに対して。
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昭和四十五年二月十八日朝の御理解
X御理解第百節「目出度、目出度の若松様よ、枝も栄える葉も繁るというではないか。金光大神は、子孫繁昌、家繁昌の道を教えるのじゃ。」
枝も栄える葉も繁る。これは人間の全てがここのところを願わない者はないと思います。その為に、様々な精進努力をする訳です。
%V%U信心があってもなかっても、やはり、そういう目出度、目出度というような、枝も栄える葉も繁るというおかげ。金光大神は、そういう子孫繁昌、家繁昌の道を教えて下さる。ですから、金光教に御縁を頂く信奉者の全部がそういうおかげを、受けなければならん。金光大神の教えを受ける者、又それを、行じてゆく者、全部がそういうおかげを受けなければならんのだけれど、実は、そんな訳にはいってないというところに、金光大神が教えて下さる事を、本気で行じていないという事になります。
金光大神は、どのような事をおしえておられるか、どこを、いつも焦点に置いておられるか、子孫繁昌の道、家繁昌の道、いわゆる、枝も栄える葉も繁るという、その生き方の焦点を何処に置いておられるかというと、九十九節の中にある。真がなければ人は助からんと、こう言っておられます。
%V%U真がなければ人は助からんという事は、どういう事かというと、真がなからなければ人どころか、自分自身も助からんと、言うておられます訳です。教祖様の教えて下さる全ての中に一貫しておるものは、真です。
真が無からなければ、人は助からん。合楽もおかげで教会として認められるようになり、ここで、沢山の人が助かり、助かるだけでなくて、ここで本気で修行して、道の取り次ぎ者としての、御用でもさせて頂こうというような人達も段々出来、これからも又、いよいよ出来ていく事であろうとこう思います。折角、お道の教師として御用させて頂く身になる人達が、出来てくるのですから、本当の修行が出来て、本当の取り次ぎ者としての、おかげを頂くように、もう今から朝晩それを願わせて頂く訳であります。
%1今日も、私その事をお願いさせて頂いておりましたら、第一、先生が出来られると、まず布教に出らなければなりませんし、その布教が中々問題でしてねえ、最近は・・・、どこはいけない、ここは近すぎる、隣接教会の許可がなからなければ、教会が出せない。先日も、ここで一年ばかり修行しとって、熊本へ帰っておりました、弘子先生が、布教に出たいというので、教務所の方へ願い出たところ、教務所の方はまあ、よいとこう言う。ところが、隣接教会の承認がやっぱり要りますから、判をもらいに行きましたがもう申し合わせたように、皆が判を押さん。
おかしな話ですねえ、大体からいうと、金光様の先生が出来られて、布教に出ろうかという意欲をみせるのですから、それこそ、お目出度うございますと、さあさあどうぞと言うて喜んで判を押さなければならない立場にある人がです、押さんという、それでここに、おかげ頂くようにというてお願いに来ました。
おかしな話でしょう。金光教がね、そういう事になってきよるのです。ですから、私はその事をお願いさせてもらよりました。折角、先生が出来られたばってん布教に出られんじゃ、これは困った事ですからねえ。
%Vそしたらね、『映画俳優の大川橋蔵を頂くのですよ。』それで私は思いました。ははあ、いかに先生がたくさん出来たってね、まあ言うなら、どういう事でしょうか。信心しとっても、せんどっても、大して信心しとるかわりばえがしない。教会が出来ても、人の難儀が取り次ぎ助けられるという。教会が出来ても、人も助からんような教会が、あっちこっちにたくさん出来たって、なあにもならん、大きな川、だからこの川があったんでは、向こうの岸に行きたい、おかげの彼岸に志してもです。只、向こうに見るだけで、ここに橋をかける。大きな川に、あそこに幸せが見えておっても、そこ迄どうしても行けない、そこに川がある。だから、教会というのはです、私は、そういう働き、いうなら橋の働き。
%Vその橋が出来るところにです、初めて今度は、こちらから見るだけであった。向こう岸にです、おかげの彼岸へ通う事が出来る。お取り次ぎの橋、成る程、光の橋だと。
だから、それだけのです、働きの出来る内容を持った先生が誕生してゆかなければならない。ここの教会の第一回の修行性が上野愛子さん。これは、わたしが%Z上野愛子さんという事は、上の愛、最高の愛、神愛という意味で、天地の親神様が働きだしなさった。ここにも、段々出社が出来なければならん為の働きが始まったと、その第一回、それを私は、私の心に感じております。
例えば、二回目には、三橋ミチカ先生がおかげを頂かれるようになります。久富博通先生が誕生しようとしておる。大坪愛子先生が又生まれようとしておる。いわゆる、神様の願いの実現してゆく事の、働きが合楽にかけられておる事を、そのような中からでも、感じん訳には参りません。
今、申しますように、大川橋。
%V幸せになりたいという人はたくさん、それこそ、目出度目出度の若松さまよ、枝も栄える葉も繁るといったような、おかげを頂きたいという人はたくさん有る。そういう例えば、おかげを頂かれて難儀な氏子の為にどうしても、大きな川に橋をかけるだけの、実力というか働きを持った先生方が出来なければならん。
だから、折角ならば、そこのところのおかげを願わなければならない。いわゆる、真がなければ人が助からんと、こう言われる、いわゆる真の人を養成してゆかなければならない。作ってゆかなければならない。という訳になります。
%V神様の理想が実現してゆく働きをなしてゆくのが教会だと。そこで教会は何を教えるかというと、金光大神が教えて下さった事であり、金光大神が何を教えて下さったかというと、その全ての教えの中に一貫しておるものは真である。そこでそんなら、真とは、どういうような事かという事なんです。
%V真とはね、私は本当な事。本当な事を本当な事として分かるという事。そこんところがね、やはり信心修行によってです。信心する者は肉眼を置いて心眼を開けよとおっしゃるが、心の眼を開かんと中々おかげに見えてこない。困った事のように見える。難儀な事としか感じられない。
%V成る程、難儀は難儀だけれども、その難儀の中にあってもです、本当な事、真の心を持って見るとです、お礼を申し上げねばならん事ばっかりなんです。
%Vいわゆる、この九十九節じゃないけれどもです。いわゆる苦に苦が重なるような場合であっても、それはおかげであり、有り難いとお礼を申し上げる心が真なんです。
%Vそれが、本当な事が分かると、そう分かるんです。ですから、真がなければ人は助からん、だから、そのお取り次ぎをなさるその人自身が、真にならなければならん。真の人にならなければならん。真がなければ、自分自身がその真によって助からなければならん。
%Vそんなら、その助かるという事は、全ての事に有り難うございますと、お礼の言える人にならなければならんという事になります。真とはそういう事。真とは本当な事。
その本当な事が分かると、そこには、いわゆる苦に苦が重なるような場合であっても、一見人間的に、いわゆる肉眼をもってするとです、難儀な事のように見える事ですけれども、それがお礼を申し上げねばおられない。
%2昨日の朝、上野愛子さんから、電話がかかって参りました。あちらのお父さんが昨日一昨日の朝亡くなられました。その事がいち早く御本部にも知らされまして、それですぐあちらから、電報が参りまして、葬儀には帰りませんから、どうぞよろしゅうと言う電報が参りました。丁度、弟嫁の桂子さんから手紙を受け取られたのが、亡くなられる前日であった。ここ二、三日大変容態が悪いから、どうぞお祈りぞえ願いますという手紙が来ておった。それで、それを受けたその翌朝、朝の御祈念の後に金光様にお取り次ぎを願った。そしたら金光様がね、「大変おかげを受けました」とおしゃったそうです。そして、いつも修行生には、裸でポンと一体御神米が下げられるのに、丁寧に紙に包んで何体かの御神米が下がった。丁度五時十分でございました。私がお取り次ぎさせて頂いたのも、やはりそうでした。あの、つゆにも似たりつゆの草かな、という御理解を頂いたあの日ですよ。
%2%Vそして、その事をお願いをして下がらせて頂いたらすぐ、亡くなったという電報が参ったと。上野愛子さんという人は大変な期待のある人だなあと、学院生一同、学院長をはじめです、その事を言われたそうです。二日間の朝の教話が上野さんの事ばっかりじゃったそうです。大変な事だ。大した事だとこういうのである。学院に参りましてからすぐ、母親が亡くなられた。兄弟が亡くなられた。そしてお父さんが亡くなられた。一年経たぬ間に・・・、私もそれを実感します。大変なおかげだなという事。
いうなら、苦の苦が重なってゆくような事ですけれども、それこそ、露草のつゆにも似たものであるという事です。つゆというのは、つゆの恵みとかよく申しましょうが。
ですからこれは、お恵みと受けなければならんでしょう。その又上につゆが降りておると、おかげのおかげという事。
これは、上野愛子さんだけではない。御霊様の上に於いても、お恵みの上にもお恵みを受けておるんだなという事になります。
娘が、そういう例えば、尊い御用に立たせて頂こうという修行に上らせて頂いたおかげです。その親達、兄弟達の御霊までがおかげを受けるというのである。
それはもう、おかげと言わなければ、おられないしるしがですね、もうこの一年余りの間に、もうそれは本当におかげを受けておるのです。
形の上に表れて来る、その事はまあ大した問題じゃないですけれども、本当に例えば肉眼を置いて、心眼をもってすると、成る程、つゆ草のつゆだという事が分かります。
その事の電話がかかって参りましたのは、本当にその事が有り難いと実感させて頂いておるという事が有り難いという電話でした。その事もお礼を申し上げて下さいとこういうのである。
これは、真の事が分かって来た事と思います。本当な事が分かってきた。成る程、真がなからなければ人は助かるらんとおっしゃる真が、いわゆる、自分の身の上に、自分の心の中に頂けてくるようになる。親を失うという悲しいという意味に於いて、一番悲しい事でしょうけれどもです、その一番悲しい事が、言うならば、尊い、有り難いという事になっておるのであります。しかも、苦が苦に重なるような事。
御理解十二節に、「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神」これは、お道の信心の神観ですけれどもね。それを、もう少し頂きますとです、神に会いたいと思えばと、空が神、下が神という事はその全て。天地間の全ての事がです、お礼を申し上げねばならん事ばっかりなのだ。
そのままが神の姿。神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ、空が神、下が神。もう、天地にみなぎる全ての事、森羅万象、ことごとくがです、神愛の表れであると分からせてもらう時、どちらを向いてもお礼を申し上げる事ばかり。
だから、そういう生き方の中からです、神をそこに実感する事が出来るんだと、神に会う事の実感がそこに有るのだと。
神様を頂きたい、神様を頂きたいという、例えばその切実心がです、そんなら、その為の神様を頂きたいという願いの元に、そんならどういう修行がなされなければならないかと、という事はまず何と言うても真の追求であるという事。
真とは、どういう事ぞやと、心に思わせて頂き、心にかけさせて頂くそこから、真とはという事が分かってくる。真というのは、真がなければ人は助からんと、言うておられるように、真がなければ、自分自身が助からん。助かりたい、助かりたいと言うて、自分自身その真を追求せずして、助かろうというても、助かったようであっても、それは、真の助かりになっているとは思われない。
真の助かりとは、自分自身が真を追求して、その真とはという事を分からせてもらう稽古から始まるのである。
そんなら、真とは本当な事というのである。その本当な事というのは、信心する者は肉眼を置いて、心眼を開けとおっしゃる。心眼を開かせて頂くところから、全てが神愛、全てがおかげと。
一年の内に両親を亡くしたり、兄弟を亡くしたり、そういう例えば、悲しい事に直面しても、その事がつゆ草の又つゆとしてです、頂けれる信心。皆さんここんところをです、ひとつ本当に分からせて頂かんと、今日私が言う御理解百節の目出度目出度の若松様よという事にはならんのです。
金光大神は家繁盛、子孫繁盛の道を教えるとおっしゃるのはね、その真を教えて下さるのです。金光大神は、そういう子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃと。目出度い目出度いそれこそ、若松様のように、枝も栄えて葉も繁っていくようなおかげを皆が願っておる。そういうおかげの頂けれる道を教えて下さる、それが、金光大神なのである。
そんなら、金光大神は、その道をどういう風に教えておられるかというと、様々な表現をもって教えて下さってあるけれども、その底に流れておるもの、一貫しておるものは、真なのである。
そんなら、真とはどういう事かと言うと、真とは本当な事なのだ。しかも、その本当なことに対するお礼を言う心が真なんだ。お礼を言う心が真心なのだ。
本当な事に対して、例えばそんなら上野さんが、お父さんが亡くなられたという事に対してです、お礼を申し上げて下さいと言う、それが、真なのです。光橋先生やら博通さんが、今度御本部へ行きます事を、只今話の中に申し上げましたがです、御本部に修行に行かせて頂ける迄のです、神様の微妙な働き、その微妙な働きの中に、難儀を感じなければおられない問題がいくらもあった。
%Vですからここにです。そんなら光橋先生が生まれる、博通先生が生まれる。そして大川橋蔵である。大きな川に橋をかけさせて頂けれる。今までは向こうの岸は、只眺めるだけであった。幸せの岸を、只眺めるだけであったけれども、その幸せの岸に自分が、橋の御用をさせてもろうてです。皆がそこを通って幸せになってゆけれる道の、開ける元を作ろうというのであるから、そういうおかげを、受けさせて頂いて初めて、過去の全てが神愛であった、おかげであったと分かる。
%Vだから、後で分かるのじゃない。今、分かれと言われておるのである。後から分かったんじゃつまらん。今、分かれと。例え苦に苦が重なるような事でも、やはり、つゆ草のつゆとして悟りを開けと、こういうのである。
言わば、神様が求められる修行というてもいいでしょう。上野愛子さんの場合は、神様が求められる修行をです、頂き終わって、悲しい事だ、苦しい事だと思わずにです、悲しいけれどもです、親の葬儀に帰りも出来ない、やはり悲しい、けれども有り難いというお礼になっておる。神様が求め給う修行に対するおかげ。
%J%3久保山先生が事故に会われて亡くなられた時、私が善導寺の親教会に行って、あそこの車の中から、御祈念させて頂いた。十五夜のお月様が、もうそれこそもう、光々としてござった。そん時、私は合掌させて頂いた時に、お月様に久保山先生がもうニコニコ笑うてござるところを拝んだ事がある。[亡き人の顔が笑える丸い月]と、そんな句が出来た。それこそ、月が鏡に、久保山先生の顔がニコニコしておられるのを、本当にこんな事になって悲しい事であった、苦しい事であったといったような顔ではない。本当に助かりきった、言うなら、ニコニコした顔がお月様に映じた事を感じたという事なんです。
%J%3%V死ぬるという事は、人間の最大の大修行でしょう。その大修行を経た後のにこやかさという、そこに、私は信心が有ると思うのです。いわゆる、神様が求め給う最後の修行をし終えられた、言うならば、有り難さとでも申しましょうか。
昨日、ここの修行生の方達が毎晩お滝に行きます。もう、帰って来る時には真っ青になる程、やはり荒修行であります。お道の信心では、それは本当と言われておりません。けれども若い、兎に角はちきれるような、修行精神がです、自分からそういう苦しみを求めての、神様が分かりたいという一念に燃えて、そういう修行を続けておる訳です。
いわゆる、あなたの御名を心の底から唱えたいばっかりの、ひとつの表行がそのような形になって表れておる、昨日がその満願であった。
それで揃うてここへお礼に出て参りまして、今日が満願のおかげを頂かせてもらいました。神様にお礼を申し上げて下さいというのである。そうして明日もう一日お礼の印に山に行きたいと思いますからというお届けがあった。
どうですか。上野愛子さんがお父さんを亡くした。一年の間にお母さんを亡くし、お父さんを亡くし、又は兄弟を亡くし、三つもの葬式をしなければならないような、悲しい、普通でいうなら、不幸な事に会ったけれども、その事が全てがつゆ草の又つゆとして頂けておるところにです、真の人がそこに出来てきておる事が分かるでしょう。
%V%U真とは、そういう事なんです。神様が求め給うそういう修行を頂きぬいた有り難さなんです。今修行生の方達が山へ行っておるのは自分から求めての修行なんです。その例えば、修行がやれやれ今日は満願、これで終わったというだけではなくて、そういう修行をさせていただいた事に対するお礼をもう一日続けたいと、こういうのである。私は信心はそれだと思うのです。真とは、そういう事なんです。
それが、いわゆる真心になって表れてくる訳なんです。教祖の神様は真がなければ人は助からんと仰せられるが、人が助からんどころではない、真がなからなければ、自分自身が助からん。これは難儀な事、これは有り難い事と区別しておるような事では助かってないでしょう。
普通で言うなら、難儀な事という。いわゆる九十九節の苦に苦が重なるような場合であっても、つゆ草のつゆとして頂けれる信心。それを私は真と今日皆さんに申しました。
金光様の先生にでもならなきゃならんというには、様々なところを通って、通って通り抜いてからの事である。言うならば、難儀から難儀が重なって、とうとう金光様の先生にならっしゃったという事になるものだけれども、そういう、とうとう金光様の先生にならっしゃったというような事ではね、人は助からんという、様々な難儀な中を通って通り抜かせて頂いて、その難儀が難儀ではなかった。つゆ草のつゆであったと分からせてもらう時、たくさんの人が助かる事の為にです、このような修行を神様が求めて下さってあったんだと、その修行に対してお礼を言わせて頂く心こそが真なのです。
私は、金光大神はそのような事をです。一貫して教えられてあるのでありますから、御理解百節にもあります。目出度、目出度の若松様よ、枝も栄える、葉も繁るというではないか、金光大神は、家繁昌、子孫繁昌の道を教えるのじゃと、おっしゃる。その道というものがです、真の道なのです。だから、金光教の信心させてもらう信奉者の全てがです、目出度、目出度の若松様よというおかげを受けなければならんのに、事実はおかげを受けてないというところにです、あなたが真を追求していない証拠だ、真の人になろうと思わずに、おかげばかりを願うておるからだという事になりましょうが。真とは、真とはとどういう中からでも真を追求していく事の信心とは・・・・・、後で考えてみて、彼れもおかげであった、此れもおかげであったと解るようになると、一人前の信者じゃという意味の事を言うておられます様に、もう彼れもおかげ、此れもおかげと本当に解らせてもらうという事。
だから、それを解ろう、解ろうとあせっただけでは、分かりません。いわゆる、信心する者は、肉眼を置いて、心眼を開けとおっしゃる、肉眼で見る、そこには難儀としか見えないけれども、心の眼をもってするとです。お礼を申し上げて下さいというものであるという事。そこに、私は本当の人間の幸せというものがある事を感じます。
自分の思うようになった事だけがおかげで、思うようにならんのはおかげでないというような思い方からね、ここは肉眼的見方。そこんところをです。心眼を開かせて頂く精進をさせてもらうという事。
最近、和賀心時代という事が言われます。いわゆる、和賀心。
例えば、この人は難儀な事だと言っておる、悲しい事だと言ってるけれども、こちらの人はそれを、おかげとしてお礼を言っておるという、そういう心が私は、和賀心だと思う私は、お道の信心させて頂いて、本当に思わせて頂く事はね。その事がおかげだと分かる事だと思うのです。もう、全ての事。
先生、困った事が起こりました。というて、やって来てもです。それは、おかげがの、という訳なのです。それは、おかげよと。
困った事と思うておる事は困った事ではなくて、それがおかげであると、分からせてもらえる、そういう心。そういう信心。
その事がおかげだと、そういう例えば、稽古をです、いわばさせてもらう。そういう蓄積をね、その事がおかげ。
信心させて頂く者の一番大切な事は、家庭に不和の無きが元とおっしゃる。だから、その事がおかげという事が分かったら、もう不和が起こる筈がないですもん。
その為には、まず自分の心の中に、不和の無い心。自分の和の心が必要だ。いわゆる、根本は私自身が助からなければならない。それが、家庭に不和の無きが元という、その元が出来、そこんところを、繰り返し繰り返し稽古をさせて頂くところにです、本当の意味に於いての和賀心とは、私はそれを天地の働きに調和する心と申しております。天地の働きに調和しておる心、それが和賀心なんです。
言うなれば、天地がいつもバックであるという実感、私の為に天地がいつも丸になって下さる、自由になって下さるという程しの事なんです。
それを御神徳とこう言う。素晴らしい信心する者は、その御神徳が目指しなのである。天地が自由になって下さる、天地が私のバックである。こんなに有り難い、心強い事は又とありますまい。天地の働きの調和がです、保てれる程しの人の事。御神徳家というのである。その例えば、おかげを頂かせて頂く事の為にまず自分の心に和賀心。
どんな場合でも、その事がおかげと言えれる心なんです。しかもそれが、苦に苦が重なるような場合であっても、どうぞ、お礼を申し上げて下さいという心です。
そういう心を目指して頂くという事が、私は金光様の御信心だと、そこんところが分かる時に、金光大神が嘘をおっしゃらんという事が分かる。成る程、教祖様がおっしゃった通りのです、日々目出度い、目出度いという元日のような毎日が過ごさせて頂けるのであり、それが、枝も栄える、葉も繁るという繁昌になり、それが、子孫繁昌、家繁昌のもといをなすものである。
そこに、至った時に、金光様いわゆる金光大神が願うて下さる、天地の親神様が願うて下さる、理想実現という事になるのである。
そういう信心をですね。日々の様々な問題の中から、おかげを受けていくという事は、様々な問題の中から、その問題の中から、真を追求してゆくという事。追求しえた時、分かった時、その事もおかげと分かる事、そういう信心を目指さずして、おかげが受けられん、受けられんというたって、何時迄たったって、受けられません。
ただし、そういう姿勢、そういうおかげを目指しておるとするならばです、ああたの願いは成就したと言うてもいいのです。それならば、もう絶対の道が開けてまいりましょう。まず私がおかげを頂いて、今日私がお知らせを頂きますように、それこそ、大川橋蔵である。大きな川の流れが、向こうの彼岸に、いわゆる幸せがあっても、大川があっては、そこは渡っては行けない。
%V%U私共が、おかげの受け始め、まずおかげを受けて、ここに大きな橋がかけられるなら、そこを又、皆がその橋を通って幸せのおかげを受ける事が出来るだろう。まず自分自身がひとつ大川橋蔵にならなければ、ならないという事なんです。
今日私は、御理解百節を頂きましたけれども、その御理解百節を、只今申します九十九節の、真が無ければ人は助からんとおっしゃる。又神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよ、空が神、下が神と仰せられる、その事を内容として、今度ここで、修行しておられる方達が、御本部へ行かれ、又御本部へ行っておる愛子さんの事を、例話にして聞いて頂いたんですけれど、どうぞ、ひとつそこに、その姿勢が定まらなければなりません。
本気でひとつ真の人になろう。本当に真を追求させてもらう。日々真とは、真とはと心にその事を求め続けれる信心姿勢をつくらなければならないという事ですね。どうぞ。